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ムラドロッシについて

 

概要

ムラドロッシはアレクサンデル・カゼムベクが1923年に設立した政党。革命で他国に亡命した君主主義者が参加しロシアの君主制ソビエト体制のハイブリット、「ツァーリソビエト」を掲げていた。

当初は青年ロシア連合として設立したが25年にムラドロッシ連合に名前を変更した。

 

 

歴史

当初この政党は反共産主義を自称していた。他の政党、組織とは異なり非ロシアの地に「自由なロシア」を作るという考えではなく「ソ連占領下のロシア」が存在しうるロシアであると信じていた(反共であったのにも関わらずソ連政府はロシアという国家を維持し国益を守っていると考えた。10月革命は新しい若いロシアを想像する進化の過程の始まりに過ぎないと)

 

他にも聖職ファシズムを掲げるなどファシストの影響力があり、ムッソリーニによって広められた「ローマ式敬礼」を使っていた。

 

指導者であるカゼムべクはファシズムから伝統主義、超国家主義、反共産主義の組み合わせ、そしてイタリアのファシストを模倣し大衆に寄り添う願望があった。

 

 

1933年、カゼムべクはベルリンでの会議に参加、ナチ党の反共の姿勢を動機として、アナスタシー・フォンシアツキーの全ロシア・ファシスト組織とパーヴェル・ベルモント・アヴァロフのロシア国家社会主義運動と協力協定を締結。

ナチ党の姿勢を動機としていたがこれが反ロシア感情に発展するとムラドロッシは書記長のキリル・エリータ=ヴィルチコフスキーを「悪魔のファシズム」と呼んでナチスを非難するようになった。

(しかしその後目立った協力関係は見られず)

 

※ウィリアム・シーブルックは、ムラドロッシはツァーリ派でありながら、その左翼的な見解から、保守的なロシア人にはほとんど「アカ」のように見えたと述べている。

 

30年代、ムラドロッシはますます開放的な親ソの立場を取るようになった。

「第二のソビエト党」になると主張し、スターリンを敵としつつも当時ソビ連邦で行われていたソビエト体制の中で皇帝(ツァーリ)が十分に機能すると考えていた。

このため、ムラドロッシは白系移民の中で「ソ連愛国者」のレッテルを貼られ、秘密警察の影響を受けているのではないか、カゼンベクは、ソ連領事館やGPU(国歌政治保安部)と関係があるのではないかと疑われるようになった。

 

37年、フランスのカフェでソ連の外交官たちと話しているところを目撃され、カゼンベクは辞任。(第二次世界大戦後、アメリカに移住し、カリフォルニア、コネチカットに住んだ後、ソ連に移り、そこで余生を送った)

 

第二次世界大戦が始まると、多くのムラドロッシの構成員がフランスのレジスタンス(自由フランス側)に志願した。

 

39年、ムラドロッシの新聞『ビバシティ』は、ムッソリーニヒトラーに加担し、彼の人種差別的信条を共有したため、彼はもはやファシストではなく、ファシズムと人種差別は両立しないとして、ムラドロッシだけが「最後のファシスト」として残ったと記した。

 

42年、解散が公式に発表された。現代にいたるまで再結成されたとの情報はない。

 

 

イデオロギー、思想関係

ムラドロッシの掲げたイデオロギーは以下の通り

 

親ソヴィエト

君主制

ロシア・ナショナリズム

共産主義

聖職ファシズム

ロシア・ファシズム(当初)

 

ムラドロッシは保守主義と革命主義を統合することを試みた。それは、新しい水準と新しい力をもって、伝統的なロシアの国家性を復活させることを想定していた。民族主義的なものであり、ロシアナショナリズムはメシア的な重要性を持っていた。

主要な思想は、物質的な価値の支配に勝利する、世界の「精神の革命」であった。

 

国家構造としては、イデオクラティックな独裁王政が理想とされた。一方では超階級的であり、他方では「社会的」であるべきだとされた。「労働者皇帝」ピョートル1世と「解放者皇帝」アレクサンドル2世は、ロシアの独裁者の模範とされた。

 

そして社会的君主制の柱は、国家を直接統治するよりも、国民の精神的な育成を目的とする教団型の政党君主はいかなる政党にも属さず、国家の副官である首相が与党を率いる

脱ボリシェヴィズムのソビエトは、非党派の自治組織であり、君主の権威を示す地方や中央の代表者と交流するもの。ムラドロッシは、前者が多段階の代表選挙を伴うことから、議会主義よりもソビエト主義に優位性を見出している。そこで、「ツァーリソビエト」を提案することとなった。

 

将来のロシア帝国(連合ロシア帝国)は、中央集権的な国家連合体であるべきだとしロシア人が住む「小ロシア」が中心的な役割を担うことになる。

 

君主制を志向していた。ロシア大公キリル・ウラジミロヴィチをロシアの正統な王位継承者として認め、後者はこの組織を支持するようになった(ムラドロッシはツァーリ専制体制とソヴィエト体制は平和的に共存可能であると主張するようになるとキリルはソヴィエトに対する共感を強めていった。カゼムベクが国歌政治保安部(GPU)のエージェントとの会合を重ねていることを突き止めてからは、同組織に対して用心深くなった。キリルはカゼムベクが組織の総裁職を辞任することに同意している。一人息子ウラジーミルは、 WW2が終わる頃までムラドロッシと繋がりを保ち続けた)

 

 

特徴

全体主義がない

精神的な兄弟愛という考え方で、首長制と厳格な国家規律、そして個人の創造的な自由を一体化させている。

ボリシェヴィキ打倒後、ソ連の政治的な舞台に登場することになる。

 

計画市場経済

モデルは、短期間で国民経済を再建したソ連とドイツで同時に、ナチスよりも厳格で効果的な計画を唱え、共産主義者とは異なり私有財産を保持することを主張した。ただし、私的資本は厳格に管理する。

運営は、全帝国国民経済会議と、地方では統治経済会議(国家、労働者、科学技術者、民間資本の代表を含む)に集中させる。

 

 

カゼムベクについて

カゼムベクは1902年、カザンの裕福な貴族の家に生まれた。曽祖父のアレクサンドル・カシモビッチ・カゼンベクは著名なロシア学者で、ロシア科学アカデミーやイギリス王立アジア学会の会員であり、『ケンブリッジ・ロシア史』では「ダゲスタニ・ペルシア人シーア派出身」と紹介されている。

ロバート・P・ジェラシーは彼の曽祖父を「キリスト教に改宗したアゼリ人」、コロンビア大学図書館のアーカイブズ・コレクションズは、アレクサンデル「ペルシャ(アゼリ)出身の古い貴族の家に生まれた」と紹介している。

 

10月革命と白軍によるポヴォールジエ(ヴォルガ)とシベリアの喪失の後、カゼンベク一家はベオグラードに移住し、カゼンベクはそこで中学校を卒業し、その後ミュンヘンに移住した。25年、カゼンベクはパリ政治学院を卒業し、モナコモンテカルロ信用組合で働き始めた。

29年にパリに戻った彼は、すでにヨーロッパのロシア社会で有名な政治活動家になっていた。

 

20年代には、カゼンベクはムラドロッシを設立した。彼のカリスマ的な人柄、明確な思想、演説力により、多くの白系移民が彼の指導を強く支持するようになった。

 

第二次世界大戦の数十年間における他の多くのロシア人移民政治組織と同様に、ムラドロッシはロシアにおける王政復古を目指した。

他の主な目標は、貧しい人々の需要を満たし、ソ連邦の現代の支配方法の一部を維持することであったが、伝統的な価値観や制度を否定することはなかった。ヨシフ・スターリンによって迫害されていたロシア正教会の役割を非常に重視した。この考えをユートピックで矛盾したものと見なす者もいたため、西側ではしばしばムラドロッシをソ連の回し者と見なすが、ソ連では民族主義者や帝国主義者の扱いだった。

彼を勧誘しようと多くのソ連関係者と会合を持っていたことが明らかにされてから、政治的人気が低下しはじめた。1940年、彼は逮捕され強制収容所に収容されたが、すぐに釈放され、カリフォルニア州サンフランシスコに移り、ロシア語新聞『Novaya Zarya』のコラムニストとして働き、YMCAがドイツの収容所で人質となっているロシア人に援助を提供するのを手伝った。

 

ムラドロッシは42年までに公式に解散を宣言された。44年から57年にかけて、カゼンベクはイェール大学とコネチカット大学でロシア語と文学を教えた。また宗教活動にも深く関わり、北米のさまざまなロシア正教会組織と協力した。

54年、ニューデリーを訪れていたカゼンベクは、ソ連への永住帰国を申請した。

 

57年、『プラウダ』が親ソの記事を掲載し、カゼンベクを著者としたことから、彼の評判は失墜した。新聞社に即時復帰を要求、要求が通らない場合は自殺すると脅した。

ソ連邦に戻り、1977年に亡くなるまでモスクワ総主教庁の外事局に勤務していた。死後はモスクワ郊外のルキノ村、地元の教会の近くに埋葬された。

 

 

参考文献

ja.wikipedia.org

en.wikipedia.org

en.wikipedia.org