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ムラドロッシについて

 

概要

ムラドロッシはアレクサンデル・カゼムベクが1923年に設立した政党。革命で他国に亡命した君主主義者が参加しロシアの君主制ソビエト体制のハイブリット、「ツァーリソビエト」を掲げていた。

当初は青年ロシア連合として設立したが25年にムラドロッシ連合に名前を変更した。

 

 

歴史

当初この政党は反共産主義を自称していた。他の政党、組織とは異なり非ロシアの地に「自由なロシア」を作るという考えではなく「ソ連占領下のロシア」が存在しうるロシアであると信じていた(反共であったのにも関わらずソ連政府はロシアという国家を維持し国益を守っていると考えた。10月革命は新しい若いロシアを想像する進化の過程の始まりに過ぎないと)

 

他にも聖職ファシズムを掲げるなどファシストの影響力があり、ムッソリーニによって広められた「ローマ式敬礼」を使っていた。

 

指導者であるカゼムべクはファシズムから伝統主義、超国家主義、反共産主義の組み合わせ、そしてイタリアのファシストを模倣し大衆に寄り添う願望があった。

 

 

1933年、カゼムべクはベルリンでの会議に参加、ナチ党の反共の姿勢を動機として、アナスタシー・フォンシアツキーの全ロシア・ファシスト組織とパーヴェル・ベルモント・アヴァロフのロシア国家社会主義運動と協力協定を締結。

ナチ党の姿勢を動機としていたがこれが反ロシア感情に発展するとムラドロッシは書記長のキリル・エリータ=ヴィルチコフスキーを「悪魔のファシズム」と呼んでナチスを非難するようになった。

(しかしその後目立った協力関係は見られず)

 

※ウィリアム・シーブルックは、ムラドロッシはツァーリ派でありながら、その左翼的な見解から、保守的なロシア人にはほとんど「アカ」のように見えたと述べている。

 

30年代、ムラドロッシはますます開放的な親ソの立場を取るようになった。

「第二のソビエト党」になると主張し、スターリンを敵としつつも当時ソビ連邦で行われていたソビエト体制の中で皇帝(ツァーリ)が十分に機能すると考えていた。

このため、ムラドロッシは白系移民の中で「ソ連愛国者」のレッテルを貼られ、秘密警察の影響を受けているのではないか、カゼンベクは、ソ連領事館やGPU(国歌政治保安部)と関係があるのではないかと疑われるようになった。

 

37年、フランスのカフェでソ連の外交官たちと話しているところを目撃され、カゼンベクは辞任。(第二次世界大戦後、アメリカに移住し、カリフォルニア、コネチカットに住んだ後、ソ連に移り、そこで余生を送った)

 

第二次世界大戦が始まると、多くのムラドロッシの構成員がフランスのレジスタンス(自由フランス側)に志願した。

 

39年、ムラドロッシの新聞『ビバシティ』は、ムッソリーニヒトラーに加担し、彼の人種差別的信条を共有したため、彼はもはやファシストではなく、ファシズムと人種差別は両立しないとして、ムラドロッシだけが「最後のファシスト」として残ったと記した。

 

42年、解散が公式に発表された。現代にいたるまで再結成されたとの情報はない。

 

 

イデオロギー、思想関係

ムラドロッシの掲げたイデオロギーは以下の通り

 

親ソヴィエト

君主制

ロシア・ナショナリズム

共産主義

聖職ファシズム

ロシア・ファシズム(当初)

 

ムラドロッシは保守主義と革命主義を統合することを試みた。それは、新しい水準と新しい力をもって、伝統的なロシアの国家性を復活させることを想定していた。民族主義的なものであり、ロシアナショナリズムはメシア的な重要性を持っていた。

主要な思想は、物質的な価値の支配に勝利する、世界の「精神の革命」であった。

 

国家構造としては、イデオクラティックな独裁王政が理想とされた。一方では超階級的であり、他方では「社会的」であるべきだとされた。「労働者皇帝」ピョートル1世と「解放者皇帝」アレクサンドル2世は、ロシアの独裁者の模範とされた。

 

そして社会的君主制の柱は、国家を直接統治するよりも、国民の精神的な育成を目的とする教団型の政党君主はいかなる政党にも属さず、国家の副官である首相が与党を率いる

脱ボリシェヴィズムのソビエトは、非党派の自治組織であり、君主の権威を示す地方や中央の代表者と交流するもの。ムラドロッシは、前者が多段階の代表選挙を伴うことから、議会主義よりもソビエト主義に優位性を見出している。そこで、「ツァーリソビエト」を提案することとなった。

 

将来のロシア帝国(連合ロシア帝国)は、中央集権的な国家連合体であるべきだとしロシア人が住む「小ロシア」が中心的な役割を担うことになる。

 

君主制を志向していた。ロシア大公キリル・ウラジミロヴィチをロシアの正統な王位継承者として認め、後者はこの組織を支持するようになった(ムラドロッシはツァーリ専制体制とソヴィエト体制は平和的に共存可能であると主張するようになるとキリルはソヴィエトに対する共感を強めていった。カゼムベクが国歌政治保安部(GPU)のエージェントとの会合を重ねていることを突き止めてからは、同組織に対して用心深くなった。キリルはカゼムベクが組織の総裁職を辞任することに同意している。一人息子ウラジーミルは、 WW2が終わる頃までムラドロッシと繋がりを保ち続けた)

 

 

特徴

全体主義がない

精神的な兄弟愛という考え方で、首長制と厳格な国家規律、そして個人の創造的な自由を一体化させている。

ボリシェヴィキ打倒後、ソ連の政治的な舞台に登場することになる。

 

計画市場経済

モデルは、短期間で国民経済を再建したソ連とドイツで同時に、ナチスよりも厳格で効果的な計画を唱え、共産主義者とは異なり私有財産を保持することを主張した。ただし、私的資本は厳格に管理する。

運営は、全帝国国民経済会議と、地方では統治経済会議(国家、労働者、科学技術者、民間資本の代表を含む)に集中させる。

 

 

カゼムベクについて

カゼムベクは1902年、カザンの裕福な貴族の家に生まれた。曽祖父のアレクサンドル・カシモビッチ・カゼンベクは著名なロシア学者で、ロシア科学アカデミーやイギリス王立アジア学会の会員であり、『ケンブリッジ・ロシア史』では「ダゲスタニ・ペルシア人シーア派出身」と紹介されている。

ロバート・P・ジェラシーは彼の曽祖父を「キリスト教に改宗したアゼリ人」、コロンビア大学図書館のアーカイブズ・コレクションズは、アレクサンデル「ペルシャ(アゼリ)出身の古い貴族の家に生まれた」と紹介している。

 

10月革命と白軍によるポヴォールジエ(ヴォルガ)とシベリアの喪失の後、カゼンベク一家はベオグラードに移住し、カゼンベクはそこで中学校を卒業し、その後ミュンヘンに移住した。25年、カゼンベクはパリ政治学院を卒業し、モナコモンテカルロ信用組合で働き始めた。

29年にパリに戻った彼は、すでにヨーロッパのロシア社会で有名な政治活動家になっていた。

 

20年代には、カゼンベクはムラドロッシを設立した。彼のカリスマ的な人柄、明確な思想、演説力により、多くの白系移民が彼の指導を強く支持するようになった。

 

第二次世界大戦の数十年間における他の多くのロシア人移民政治組織と同様に、ムラドロッシはロシアにおける王政復古を目指した。

他の主な目標は、貧しい人々の需要を満たし、ソ連邦の現代の支配方法の一部を維持することであったが、伝統的な価値観や制度を否定することはなかった。ヨシフ・スターリンによって迫害されていたロシア正教会の役割を非常に重視した。この考えをユートピックで矛盾したものと見なす者もいたため、西側ではしばしばムラドロッシをソ連の回し者と見なすが、ソ連では民族主義者や帝国主義者の扱いだった。

彼を勧誘しようと多くのソ連関係者と会合を持っていたことが明らかにされてから、政治的人気が低下しはじめた。1940年、彼は逮捕され強制収容所に収容されたが、すぐに釈放され、カリフォルニア州サンフランシスコに移り、ロシア語新聞『Novaya Zarya』のコラムニストとして働き、YMCAがドイツの収容所で人質となっているロシア人に援助を提供するのを手伝った。

 

ムラドロッシは42年までに公式に解散を宣言された。44年から57年にかけて、カゼンベクはイェール大学とコネチカット大学でロシア語と文学を教えた。また宗教活動にも深く関わり、北米のさまざまなロシア正教会組織と協力した。

54年、ニューデリーを訪れていたカゼンベクは、ソ連への永住帰国を申請した。

 

57年、『プラウダ』が親ソの記事を掲載し、カゼンベクを著者としたことから、彼の評判は失墜した。新聞社に即時復帰を要求、要求が通らない場合は自殺すると脅した。

ソ連邦に戻り、1977年に亡くなるまでモスクワ総主教庁の外事局に勤務していた。死後はモスクワ郊外のルキノ村、地元の教会の近くに埋葬された。

 

 

参考文献

ja.wikipedia.org

en.wikipedia.org

en.wikipedia.org

珍イデオロギー解説 その2:INGSOC(イングソック)

 

戦争は平和なり、自由は隷従なり、無知は力なり

 

 

 

 

概要

イングソックはジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場する架空のイデオロギー全体主義国家であるオセアニアが採用している。

 

イングソックはニュースピーク(新語法/実在の英語を元に作った新たな英語、国民の語彙や思考を制限することで党のイデオロギーに反する思想を考えることを防ぐことが目的)による単語で「イングランド社会主義(English Socialism)の略称。

 

※映画「1984年(1984)」では党の名前

 

簡単に言えば究極な形の全体主義

 

 

 

起源

まずイングソックについて話すには1984年の世界について話しておかなければならない。

作中では50年代に熱核戦争が勃発、その後、各地で内乱が起こり、世界に3つの超大国が出現した(オセアニア/ユーラシア/イースタシア)

 

オセアニアの支配政党によると「イングソックは社会主義革命に引き続いて誕生した思想」だとされているが、この党は歴史の改ざんを常日頃から行っており、どのように誕生したのか正確には分からない。

 

なおイングランド社会主義と銘打ってはいるもの、かつての社会主義とは全く違うものとなっている。

 

 

 

イデオロギーとして

ゴールドスタインが執筆した(とされている)禁書「独裁制集産主義の理論と実際」によれば、

 

イングランド社会主義」ではなく少数独裁制集産主義」(Oligarchical Collectivism)

イングソックは古い社会主義運動からその名を残してはいるが、社会主義運動が本来拠って立ってきた原則のすべてを拒否し中傷し、それを社会主義の名によって行った」

 

経済的には社会主義ではなく「集産主義(国家が生産手段などの集約化、計画化、統制化を行うイデオロギー)」で、政治的には「寡頭制(少数独裁制、全部または大半の政治権力を特定の少数の人間が握っている政体)」をとっている。

 

寡頭支配層が打倒されること、体制が不安定になることを防ぐ為に、強固な管理社会を築き(テレスクリーン、密告、ニュースピーク、二重思考)、歴史や記憶の改ざん科学技術進歩の制限資本を浪費するための永久的な戦争などの異常な手段を用いて、権力に対する抵抗は絶対に実を結ぶことがないように対策されている。

 

党は「ビッグ・ブラザー」により擬人化されビッグ・ブラザーは党の頂点にいる権力者とされている(作中では登場しない)

 

彼の顔は街角のポスターやテレスクリーンの番組などに偏在しており国民を監視していることを示唆するように「BIG BROTHER IS WATCHING YOU」と書かれている。

 

このイデオロギーは国民の完全な服従を求め、実現のためには逮捕や拷問も辞さず、恐怖により国民を支配することが根本にある。

複雑な心理的学道具や手法のシステムに精通しており、国民に犯罪を自白させ反乱の意思を忘れさせ、ビッグ・ブラザーや党自身を愛させるように仕向けている。

 

ナチ・ドイツロシア共産党も、方法論の上ではわれわれのそれに極めて近かったが、しかし、彼らには権力追求の動機を口にするだけの勇気は無かった。彼らは不本意ながら、そして暫定的に権力を握ったのであり、しかも眼前に人間の自由と平等を実現する地上の楽園が来ているような態度を装うか、あるいは本気にそう思い込みさえしたのであった。われわれはそんな手合いとは違うんだ。およそこの世に、権力を放棄する心算で権力を獲得する者はいないと思う。権力は一つの手段ではない。れっきとした一つの目的なのだ。何も革命を守るために独裁制を確立する者はいない、独裁制を確立するためにこそ革命を起こすものなのだ。迫害の目的は迫害それ自体にある。権力の目的は権力それ自体にある。拷問の目的は拷問それ自体にある。

 

- オブライエン談

 

 

イングソック(党)の方針と政策

ニュースピーク(新語法)

先述したが、実在の英語を元に作った新しい英語の事。

イングソックに基づき国民の思想を管理し、幅を縮小することによって一方に導き、イデオロギーに反する思考(思考犯罪/thought crime)ができないようすることが目的。

国民の思考の単純化を目指す為に、辞典の改訂版が出る度、旧語法に由来する後の数を削減し「世界で唯一、毎年語彙の数が減ってゆく言語」と語られている。

 

 

作者のオーウェルのニュースピークに繋がる思考の起源は46年のエッセイ「政治と英語」に現れている。

 

……私は、われわれの言葉の堕落は治療可能だと先に述べた。これに反対する者は、もし真っ向から議論するのなら、言葉は現実の社会情勢の単なる反映に過ぎず、語彙や文法をどう直接つぎはぎしても、その発展に影響を及ぼすことはできないと議論するだろう。

 

英語の退廃が、話者を抑圧する為恋に悪用されている状況を比喩的に描いたのがニュースピーク仕様の矯正の描写だった。

 

 

二重思考(ダブルシンク)

この概念「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」である。

全体主義国家「オセアニア」には民主主義は存立しないという事実を知りつつも、党が民主主義の擁護者であるというプロパガンダを同時に信じる等、人物の思考に大きな影響を与えている。

 

この概念は社会を支配するエリート層(党内局員)が半永久的に権力を維持する為、住民(中間階級、党外局員)および自分たちに実践させている思考能力とされている。

 

ゴールドスタインの著書によれば

二重思考とは一つの精神が同時に相矛盾する二つの信条を持ち、その両方とも受け容れられる能力のことをいう。……

……二重思考はイングソックの核心である。何故なら、党の本質的な行動は意識的な欺瞞手段を用い乍ら、完全な誠実さに裏打ちされた堅固な目的を保持することだからである。一方で心から信じていながら、意識的な嘘を付く事、不都合になった事実は何でも忘れ去る事、次いで再びそれが必要となれば、必要な間だけ忘却の彼方から呼び戻すこと、客観的事実の存在を否定する事、それでいながら自分の否定した事実を考慮に入れる事――以上は全て不可欠な必須事項なのだ。

二重思考という用語を用いる場合とても、二重思考により行わねばならぬ。その言葉を用いるだけでも、現実を変造しているという事実を認めることになるからだ。そして二重思考の新たな行為を起こすことでこの認識を払拭する訳だ。かくて虚構は常に真実の一歩前に先行しながら、無限に繰り返される。結局、二重思考の方法によってこそ党は歴史の流れを阻止できたのである――そして恐らくは今後何千年もの間、阻止し続けられるかもしれぬ。

 

※例えば、「我々は常にユーラシアと戦争してきた、東アジアは常に我々の同盟国であった、そして我々は常に東アジアと戦争してきた、ユーラシアは常に我々の同盟国であった

 

全体主義国家が政治的な目標を達成する為、様々なイデオロギー的な矛盾を行うことに基づいている。ナチス・ドイツでは、敵はドイツ人より劣っていると同時に、全世界を影から操っているように描かれていた。

 

 

 

形而上学(自然学に先立つ原理学としての第一哲学)として

イングソックは、すべての知識や現実や存在は党の集合的知性の中に存在していると仮定しており、現実とは「党が現実と言ったもの」を指す(最新の発表通りんい党が歴史的記録を改ざんさせる証拠であり、新しく捏造された過去を信じ、それが現実となる、こうすることで過去を思い通りにしてきた党は未来までも支配することになる)

 

現実とは外在的なものではなく、全宇宙は一人の人間の頭の中に内在する。誤りの多い普通の人間の頭の中ではなく、集団主義体制下の党の不滅の精神の内部にしか存在しない。

本人の意思、党の命令次第で、本人の認識の中にある宇宙や世界では、過去というものの存在も、客観的に見えるすべての事実や物理法則も、消え失せあるいは変化してしまう。

 

党が「2たす2は5である」といえば2+2=5が現実となるり党が「あなたは存在しない」といえば、いかに矛盾していてもそれが現実となってしまう。

 

 

 

 

体制下の階級構造

 

党内局(Inner Party):政策を決め、決定を行い、政府を動かしている。党とは彼らのことを指す。党の頭脳部であり、社会を動かすエリート階層・上層階級である。テレスクリーンを消す権限を持つ。

 

党外局(Outer Party):政府のための事務仕事を行う中層階級である。党の手足にあたる。上層階級である党内局の潜在的な脅威とされ、テレスクリーンや密告などで最も厳重に監視されている階層でもある。

 

プロレもしくはプロール(Proles):労働者(プロレタリア)であり下層階級。人口の大半(85%)を占める。ほとんどはテレスクリーンすら持っておらず監視下にないが、党は彼らに必要な愛国心を注入する以外は政治教育などを行わず、酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、プロレフィード(人畜無害な読み物やレコードなど)を与えて暇つぶしをさせる。

 

 

参考文献

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

polcompball.miraheze.org

珍イデオロギー解説 その1:ポサディズム

 

 

概要

このポサディズム(Posadism)は1960年代にアルゼンチンのトロツキストであり中南米、アルゼンチンの第4インターナショナルのトップだったフアン・ポサダスによって作り出された権威主義的かつ経済的に左翼的な思想(加速主義的な要素もある)
主な組織は第4インターナショナルポサディスト

 

ポサダス曰く、

共産主義のみが惑星間旅行の発展が可能である。
他の惑星から来た宇宙人は皆高度な共産主義社会に住んでいる
熱核戦争後に世界革命をもたらすため、地球単位で共産主義者に救いの手を差し伸べる
人間はイルカや他の動物とコミュニケーションをとることが出来る。この分野におけるソ連の研究は「人間と自然の関係調和」につながる。
そして人類は水中出産に熱中するようになり、最終的に「アメーバのような」無性生殖に至り、「惨めで忌まわしい性的興奮」を治すという信念を持っている(後者については多くのポサディストが反論している)

 

要は「核兵器放射能と同時に共産主義も撒き散らす

というもの。

 

 

ポサダス「熱核戦争こそが世界革命を達成できる方法だ」(要約)

これだけではなんのことやらわからないと思うのでさらに深堀する。

ポサダスは核戦争は避けられないと考え、核武装した社会主義国が資本主義国に対し核の先制攻撃を行うべきと主張した。つまりは核戦争後の世界が世界革命が達成できる世界であった。(同氏は1963年にアメリカ、ソ連、イギリスによって署名された部分的核実験条約に反対した)

彼はそれだけにとどまらず型破りな切り栗の作品を数多く発表した。

 

トロツキー主義とUFO研究の統合」

宇宙に知的生命体が存在する証拠はないが、当時の科学ではその存在の可能性が高い。さらに、空飛ぶ円盤(UFO)で地球を訪れる地球外生命体は、惑星間旅行を実現するために社会的・科学的に高度な文明から来たはずであり、そのような文明はポスト資本主義世界においてのみ実現され得た。

空飛ぶ円盤、物質とエネルギーのプロセス、科学と社会主義(1968年)

 

来訪した宇宙人は本来非暴力的で観察に来ただけだ。人類は宇宙人に地球の問題解決への介入を求めなければならない。すなわち「貧困、飢餓、失業、戦争を抑制し、すべての人に尊厳を持って生きる手段を与え、人類友愛の基盤を作る」ことだ。この目的を達成するための手段は、主流のトロツキストにとどまり、資本主義だけでなく労働者国家の官僚制を終わらせ、社会主義社会を確立する。

 

ポサダスが68年以降、このテーマで何かを発表することはなかった。しかしUFO研究はポサディズムの重要な部分となりポサダスの死去後も一部のポサディストたちは探求し続けた。

主にミナッツォーリ、シュルツ、グルントマンが研究し続けたが、その他の者は型破りの概念から距離を置き、地球外生命に対するポサダスの関心は誇張された限界点だったと主張した。

 

ポサディストによる社会

ポサディストは一般的なマルクス主義理論によって提案された社会と同様の社会を提唱している。プロレタリア革命によってブルジョア国家が破壊され、メディア、経済、貿易が統制された社会主義国家に取って代わられる。

 

科学の進歩

ポサダスは、科学の進歩が利益のためではなく、共通の利益のために使われたときに、人間の生活を向上させる方法に強い関心を抱いていた。

人類は、科学を拘束する拘束衣に圧迫され、抑圧されていると感じている。科学は抑圧されているのだ。資本家たちは、科学を使って人々を殺すことによって、科学を抑圧している。科学が解放されれば、-それは長くはない、ほんの数年のうちに-すべての問題、洪水、飢餓、不幸を一掃することができるだろう。このすべてはすでに実現可能であり、実現するのもそう遠くはないだろう。そして、そうなれば、誰もが建築家、エンジニア、医者などになることだろう。

 

サディズムに関する学術的な言説

アルゼンチンの過激派であるジョアン・ベネヴァンは、この組織をポサダスが「教皇」として活動する教会に例えた。

いくつかの加盟国が脱退し、その代表的なものはブラジルとアルゼンチンであった。ポサダスは、数名のメンバーを失い、学者からの支持も得られない中、それでも自分の主義、主張を実践し続けた。

テレサ・ヘイターの自伝『ヘイター・オブ・ザ・ブルジョワジー』で、ポサダスを「トロツキー主義からの逸脱者の中で最もクレイジー」と評しているように、当時の多くの学者は彼の活動を風刺的にとらえていた。

サディズムに関するごく最近の著作に、A・M・ギトリッツによる『信じたい』がある。「ポサディズム、UFO、黙示録的共産主義」と題するものである。著者は、ポサディズムの歴史とその最終的な崩壊を検証し、このテーマに対する現在の関心の高まりの意味を分析している。

 

 

ポサダスについて

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幼少期

ポサダスの本名はHomero Rómulo Cristalli Frasnelliで1912年1月20日にアルゼンチン、マテーラ南部のイタリア移民の子として生を受けた。

ブエノスアイレスで少なくとも9人の兄弟姉妹とともに激しい貧困の中で育ったクリスタッリは母親の死後、兄弟姉妹と共に生きるため隣人から物乞いをしたり小銭のために雑用をしたりしなければならなくなった。栄養失調により永久的な健康障害が残ったが、この生活は資本主義に対する彼の見解に影響を与えた

少年時代にはエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタのサッカー選手として活躍。30年代には、靴職人として働き、アルゼンチンのコルドバで靴職人と皮革労働者の組合を組織した。

この時期、ブエノスアイレス州の選挙に社会党オブレロから立候補。その後、1941年に第4インターナショナルに加盟した社会主義革命党に参加したが、この党はすぐに衰退。

1947年、クリスタッリとダンテ・ミナゾーリがトロツキズムに傾倒する労働者階級の過激派の小さなサークル、Grupo Cuarta Internacional(GCI)を設立した。

 

トロツキストとしての活動

そして1950年代には第4インターナショナルのラテンアメリカ支局のリーダーとなり、彼の指導の下、この地域、特にキューバの鉄道労働者、ボリビアの錫鉱山労働者、ブラジルの農業労働者の間で運動は一定の影響力を持つようになった。

53年に第4インターナショナルが分裂すると、ポサダスと彼の信奉者たちは、ミシェル・パブロと第4インターナショナル国際事務局の側についた

しかし、59年になると、彼と信奉者は、ISFI指導部が革命の可能性に対する自信を欠いていると非難し、けん制し合うようになった。また、核戦争の問題でも対立し、ポサダスは「戦争革命」が「スターリン主義と資本主義の灰に決着をつける」「灰の中から社会主義社会が立ち上がるのだから核戦争は必然である」と考えていた。

そしてルイス・ナギルとともに、三大陸-農民工同盟の指示に従って設立された「破壊工作組織」を指揮した。

ISFIとの間の対立は悪化しポサダスはISFIに書かれた手紙のペンネームとして使われたため、その新しい名前を貰うこととなった。

その手紙の中で、ポサダスと支持者は、世界中のトロツキー主義運動は当時第4インターナショナルのラテンアメリカ局(BLA)に大きく影響されており、ヨーロッパ人は消極的になっているといった大胆な批判を行った。

BLAとISFIの双方が和解のために努力していると言われていたが、62年4月、ポサダスは大会を招集。BLAの指導者が率いるISFIの執行委員会を完全に再編成するという大胆な行動に出た。ポサダスとラテンアメリカに集中していた彼の国際的支持者たちは、1962年にISFIからの分離を決定(第4インターナショナル統一事務局{USFI/US:マンデル派}を形成する第4インターナショナル国際委員会{ICFI/IC:キャノン派}との再結成前)、新たな組織を立ち上げた。それがポサディストである。

 

核戦争について

62年に独自の第4インターナショナルを設立したが、第4インターナショナルポサディストという名称を使い始めたのは70年代初頭であった。

創立総会で、ポサダスは「原子戦争は不可避である」と宣言した。

人類の半分を破壊し、莫大な人類の富を破壊することになる。それは非常に可能性が高い。原爆戦争は、地球上に真の地獄を引き起こすだろう。しかし、それは共産主義を妨げるものではありません。

われわれは、原子戦争の前に権力闘争を行い、原子戦争の間に権力闘争を行い、そして権力を握るという段階のために自らを準備しているのである。原爆戦争は全世界同時革命だから、連鎖反応としてではなく、同時である。同時というのは、同じ日、同じ時間という意味ではない。歴史的な大事件は、時間や日数で計るのではなく、期間で計るべきである...労働者階級は、自らを維持し、そして、直ちにその凝集力と集中力を求めなければならない...。

破壊が始まった後、大衆は、すべての国で、短時間で、数時間で、出現することになる。資本主義は、洞窟の中に身を置き、破壊できるものは全て破壊しようとする以外に、原子戦争で自らを守ることはできない。それに対して、大衆は出てくる。出てこなければならない。なぜなら、敵を打ち負かすことが、生き残るための唯一の方法だからだ。資本主義の装置、警察、軍隊は抵抗できないだろう。

 

ポサダスは、「核戦争は革命的戦争に等しい」と書いた。

核戦争は人類にダメージを与えるが、人類が到達した意識レベルを破壊することはない。人類は核戦争を経て、新しい人類社会である社会主義に速やかに移行するだろう。

 

地球外生命体について

1968年以降、ポサダスはUFOと地球外生命体に関する理論でも知られるようになった。もしUFOのようなものが存在するならば、非常に高度な技術を習得したものが存在することを示すことができ、それはこの地球で社会主義が提唱しているものと適合するものであるだろう(つまり社会主義体制だからこそ成し遂げることが出来る)

もしUFOが存在するならば、地球上のいくつかの大きな問題に対処するために協力することができるだろう。

彼の最も有名な著作のひとつに、1968年に出版された『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーのプロセス、科学と社会主義』というパンフレットがあり、ここで彼は、地球外生命体やUFOの存在を共産主義と結びつけている。

彼は、当時目撃されたUFOは他の惑星における生命の進歩を示しており、それは共産主義的なイデオロギーによってのみ可能であると主張した。

さらに、資本主義は人類の科学的・文明的進歩に取り組むのではなく、人々を自己中心的にし、利益を重視する傾向があると述べている。

地球外生命体が他の惑星を訪問できるほど高度な技術を開発したことは、彼らが資本主義社会の弊害を克服したことを意味する。それは、資本主義社会の弊害である殺戮や支配の衝動も克服しているということだ。他の惑星にいる者がここに来たとき、地球の住民に介入し、貧困を抑制するために協力するよう訴えなければならない。

 

と書き、地球外生命体との協力に熱意を示した。

つまりポサダスは共産主義を代替政治体制ではなく文明の進歩として定義しているのである。これは地球外生命体に関するポサダスの単著であるが、この思想は彼のフォロワーや後のトロツキストたちの間で多くの人気を博した。

 

「ポサダス万歳!」

イギリスの革命的労働者党(トロツキスト)が発行していた『赤旗』などのポサディスト新聞は、ソ連の宇宙飛行士や中国のロケット打ち上げを賞賛する見出しや、地方の労働争議に関する記事を掲載していた。

また、ポサダスは、最後に 「ポサダス万歳!」と叫ぶ習慣があることから、大きなエゴを持っていると考えられていた。

しかしこれはポサダスの文書の「書き方」に由来している。それは、親しい協力者たちとの小さな組織であれ、より大きな活動であれ、党の行事で行われたスピーチの記録であることがほとんどだった。初期の頃は、ポサダスが "Viva la Revolución Mundial!"と "Viva la Cuarta Internacional!"で演説を終えた後、誰かが "Viva el camarada Posadas!"と叫ぶのが恒例になっていたからだ。

 

 

第4インターナショナルポサディストについて

ポサダスが創設した第4インターナショナルポサディストは62年に設立されたがこの組織について語るにはもう少し歴史をさかのぼる必要がある。

1953年、第4インターナショナルが分裂(パブロ派/キャノン派:後に再統一しマンデル派となる)

この時、ポサダスとその支持者はミシェル・パブロとその派閥である第4インターナショナル国際書記局(ISFI/IS)に味方した。しかし59年にポサダスが支持している熱核戦争(核の炎で資本主義社会は破壊され社会主義の時代がやってくると主張)の問題を巡りISFIの多数メンバーと衝突するようになった。

そしてポサディストは62年にISFIと分裂し第4インターナショナルポサディストを設立した。

(キューバにはポサディストグループがあり59年の革命でカストロゲバラと共に戦った)

ポサディストグループは、キューバ政府がグアンタナモ湾アメリカ軍基地を強制的に追放すべきだと主張し、グアンタナモの町の労働者を組織して近くの軍事基地に行進させようとしたことでキューバソ連寄り勢力から非難された。66年1月に開催された三大陸会議で、カストロゲバラの影響力を「疫病神」と糾弾し、これを理由にゲバラを追放することを決定、逆に、ゲバラボリビア当局によって処刑された後、ポサダスは1967年にチェ・ゲバラが実際には死んでおらず、カストロの政府によって刑務所に保管されていると主張。 1968年までに、ポサダスの運動がヨーロッパで発展し始めたがufology(UFO研究)は多くの牽引力を集めることに失敗した。

話を戻して、60年代後半、ポサディストはUFOに関心をさらに寄せるようになり、UFOは他惑星が社会主義体制の証拠であると主張しだした。これが先述した「他の惑星から来た宇宙人は皆高度な共産主義社会に住んでいる」に繋がる。

その後は多くのメンバーが追放され偏執狂的なポサダスによりすぐに影響力
が低下しさらにメンバーがいなくなっていた。

81年にポサダスが死去し組織は事実上解散した。今でも活動を続けているグループは非常に少ない。

(イギリスでは革命労働者党(トロツキスト)が63年にポサディストのメンバーによって設立され、分裂や会員数の減少もあったが2000年まで新聞を発行し続けた)

近年(2018年現在)、特にUFO研究における見解に関して、ポサダス派への関心が高まっている。ソーシャルメディア上では風刺的・非風刺的な「ネオ・ポサディスト」グループがいくつか出現し、ポサダスはトロツキズムの歴史において最も認知された名前の一つ」となった

 

 

加盟政党

第4インターナショナル・ポサディストはいくつかの政党をメンバーとして主張している。

これらの組織のうちいくつがまだ存在し、どれだけのメンバーがいるのかは不明である。しかし、世界中に100以上のポサディズム運動のメンバーがいるとは考えにくい。この組織は現在アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイの連絡先を記載しているが、ウルグアイだけが機能している政党を持っている。

 

 

参考文献

東京の壁崩壊(製作途中) - Lucypedia

東京の壁崩壊(とうきょうのかべほうかい)は、2020年7月9日に、それまで北日本(日本人民共和国)市民の大量出国の事態にさらされていた北日本政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅規制緩和政令を「事実上の旅行の自由化」と受け取れる表現で発表したことで、同日夜、東京の壁に東東京都民が殺到し混乱の中で国境検問所が解放され、翌日に壁の撤去作業が始まった出来事である。

略称として「壁崩壊」ともいう。

 

これにより、1958年9月23日の東京の壁着工から61年間にわたる、東西東京が遮断されてきた分断の歴史は終結した。この出来事は共産党政権打倒革命を象徴するものであり、この事件を皮切りに共産圏では続々と政権が打倒された。

 

同年9月7日、「日本人民共和国に再設置された市町村が大和民国(南日本)に加盟する」という名目(事実上の編入)にて日本の南北統一がなされた。

東京の壁に登る東西東京都民(2020年11月11日) 出典:共同通信社

 

 

壁の建設

第二次世界大戦(第二次大祖国戦争)後に敗戦国であった日本は連合国による分割統治が行われ、その中で首都東京も終戦直後に連合国の共同管理地域とされ、やがて東西のの対立とともに1952年に東西2つの国が成立。

日本人民共和国ではソビエト連邦からの莫大な経済援助と軍事力で社会主義国家として東側陣営に加入。西側陣営に属する大和民国とで日本は分断された。

そして首都東京もソ連側管理地区の東東京とイギリス、アメリカ合衆国中華民国3か国管理地区の西東京に分断。ただし1960年夏までは東京都内での東西の往来は自由であった。

 

しかし58年9月23日に突然北日本側が東京都内の東西の往来を遮断し国境線近くに壁を建設、都民の東西間の自由通行はこの日に断絶された(東京の壁)

これは東西に分かれて以後、東東京から西東京への人口流出が止まらず46年から59年までに北日本から南日本へ移った人々は約200万人に達し、その半数が自由に行くことができた西東京経由で南日本に逃れていた。

危機感を持った北日本西東京が逃亡への出口になっていることから、西東京を壁でふさぎ北日本国民を閉じ込めるために建設したものでこれを「反資本防壁」と呼んだ。

 

国境が断絶され有刺鉄線が張り巡らせたが、あるところでは道路の真ん中に、あるいは運河が、または市の真ん中が国境線であり、東京の壁建設以後、東西の東京間での都民の行き来は不可能となった。

 

離散家族問題

60年、北日本の最高指導者である████主席は壁の建設で生じた「離散家族」の問題が南日本(大和民国)との関係を瓦解させるものだと考え、62年12月31日までの期限付きで南日本との国境線を解放した。

これにより離散家族の問題は解決し63年1月1日より国境線は完全に封鎖された。

 

壁の犠牲者

西へ逃れる為に壁を乗り越えて越境しようとした都民が射殺される悲劇は後を絶たなかった。1958年9月から20年6月までの61年間で6000人以上が越境し逃れ、約300人以上が国境警備隊に射殺され、約4000人以上が試みるも失敗し逮捕された。

 

壁の国境管理の厳格化

北日本間で1958年から2019年までに総計67万人が南日本に逃れた(そのうち7万人が国境の厳重な見張りをすり抜けて越境した者でその中の約6000人が東京の壁を乗り越えたものであるがその大部分は壁の国境管理が甘かった1974年までの数字である)

 

1974年、██主席は度重なる南日本への越境行為への対策を発表した。

 

越境しようとした者は逮捕することを優先するが状況次第では発砲を事前の通告なく許可する。

越境犯には5年の懲役刑に処す。

逃亡幇助の計画準備の場合は終身懲役刑に処す。

 

これは国境管理厳格法と言われ日本が統一する20年まで存在した(統一時に廃止)

 

壁の意味

壁の建設は、北日本の体制が強制に依存し住民が国土を離れる事を妨げる以外に暴力によりその崩壊を回避できないことを示すものであった。

これはソ連ニキータ・フルシチョフ首相とアメリカ合衆国ダグラス・マッカーサー大統領との間で、暗黙の了解として西東京の米英中の駐留兼、及び西東京への自由通行券、西東京都民の政治的自己決定権を侵さないことを前提とした壁の建設だった。

 

それは北日本の人々にとって、以後北日本を離れることできなくなり、彼ら彼女らの不自由はもはや逃れることができない運命となったことを意味した。

体制に反対する人々の大半は国外に流出し、労働力の流出を防止しただけでなく現在の状況と折り合うしかないという意識を人々に与え、日本共産主義統一党にとっては国家運営がしやすい環境が整備されたのだった。

 

 

日本人民共和国の苦境

ソ連北日本を建国させた創設者であり長年事態発展の成り行きに影響を及ぼし、北日本の存続の生殺与奪県を握っていた。これは壁崩壊で北日本が南日本に編入されるまでそうであった。

北日本が国民を監獄体制下に置き、抑圧に基づく国の運営を行っていたことは、鉄のカーテンと東京の壁によって物理的な力で国の安定を保証し、それに依存していた。つまりは政治的に破綻していた国家であった。

 

1980年代に入ると南北日本間で相互を国家承認、事実上国交が樹立(北日本基本条約:1981年)し大幅な経済援助なども行われていた。

 

経済の悪化

北日本経済は、1970年代に████主席のもと社会主義市場経済が導入され発展し、東側陣営では東ドイツに次いで随一の繁栄を誇った。しかしソ連の圧力による要人の失脚、76年に発生した石油危機の後、経済当局が組織硬直してしまい、産業構造の転換に失敗、不況に陥ってしまう。

████国家評議会議長率いる指導部は危機打開のために南北日本国基本条約を南日本政府と締結し事実上国交を結んだ南日本から経済援助を受け助成金として国内各地にばらまき経済を成り立たされていた。

統一後に分かったことだが、北日本経済は経済援助に頼りきりになっており、収支バランスを均衡にするためには市民の生活水準を20%前後切り下げることが必要だった。

この経済援助は2010年代前半まで行われたが内転作戦(武力による統一を目指す軍事作戦)の存在が明らかになってからは援助が打ち切られ経済の悪化がさらに顕著になった。

人口流出が止まらなかったため追い詰められた北日本政府が起死回生の策として旅行及び国外移住の大幅規制緩和政令を制定することにした。図らずもこれが統一の大きな要因となった。

 

分断国家の思想統制

████は長らく社会変革の動きを危惧しており秘密警察である特別高等警察(別名SHP)を動員させ国民の束縛と思想の要請を強めていた。

他の社会主義国(東ドイツを除く)とは違い、分断国家である北日本は「社会主義イデオロギー」だけが国家のアイデンティティであり、政治の民主化、そして市場経済の導入といった課企画によって南日本との差異をなくすことは、存在理由の消滅、国家の崩壊を意味する為、北日本政権は2010年代後半国内での反社会主義の高まりを弾圧で抗い続けていた。

 

旅行の自由を求めて

2019年以前の共産圏では、国家が国民に資本主義国家に旅行できない制限を課して、移動の自由がない状態が続いていた。

19年の民主化要求のデモにおいて「旅行の自由」が求められていたのもこういった事情があった。

 

北日本市民が比較的自由に行けたのはソ連であり(樺太から本土に行くのが主流だった)身分証明書の提示だけで旅行が可能であった。民主化が進んでいた北朝鮮(18年に韓国と統一し朝鮮共和国となった)へは15年以降は公認旅行者が主催している旅行や招待状によるものでしか許可されなくなった。

 

この旅行の自由、移動の自由を求める動きは壁の建設後は体制の抑圧で窒息状態だったが、20年代後半になってから顕在化し、北日本の頑なまでの対応が自国民の大量出国を招き、その対応で新しい方針を打ち出す際に失敗を犯し壁の崩壊を招き、消滅に繋がった。

 

ソ連の改革

ソ連では2010年に共産党書記長に就任したゲンナジー・ジュガ―ノフがミハイル・ゴルバチョフ前書記長が実行しようとしていた「ペレストロイカ」政策を発表、共産圏にも推進を進め、多くの国は改革を進めたが北日本にとって社会主義体制の放棄は分断国家としての独自性、国家文壇の正当性を放棄するに等しいため、改革の実行を拒否、反対派を逮捕、拘留し弾圧するだけだった。

さらに████指導部は「日本人民共和国の社会主義」というプロパガンダを打ち出してジュガーノフと対立、ソ連メディアの情報にさえ検閲をかけた。

 

北日本の動揺  

出典又は引用(参考サイト)

 

日本民主主義人民共和国 - アンサイクロペディア

https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD#.E5.8D.97.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82

 

日本の分割統治計画 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/iki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E5%89%B2%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A8%88%E7%94%BB

 

ベルリンの壁崩壊 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/iki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E5%89%B2%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A8%88%E7%94%BB

 

天安門事件ベルリンの壁崩壊...激動だった平成元年 - 日本放送 NEWS ONLINE

天安門事件、ベルリンの壁崩壊…激動だった平成元年 – ニッポン放送 NEWS ONLINE

 

 

架空蹴球戦記:日本人民共和国(北日本)代表

サッカー日本人民共和国(サッカーにほんじんみんきょうわこくだいひょう)は、日本人民共和国蹴球協会によって編成されていた日本人民共和国の男子サッカーのナショナルチーム。愛称は極東の赤い稲妻。2019年2月から████が監督を務めていた。FIFAワールドカップに3度出場し最高成績はベスト8。アジアレベルのAFCアジアカップでは1度の優勝を記録している。

アジアサッカー連盟および東アジアサッカー連盟所属。ホームスタジアムは首都、札幌にある札幌競技場。

2020年の日本統一により日本国代表に吸収され現在は存在しない。

 

 

かつて使用されていた協会のエンブレム

 

統一前まで使用されていたユニフォーム

 

 

歴史

黎明期

1950年に建国された日本人民共和国であるがサッカー協会が設立されたのは52年のことである。FIFAには54年に加盟しAFCには55年に加盟した。

54年、58年、62年のワールドカップ予選には資金不足、国内情勢が不安定で参加できなかったが、状況が安定したことにより66年WC予選には参加することを決めた。

 

66年WCイングランド大会に向けて代表が結成されたのは1962年9月23日のことだった(WCメンバーの████によれば)、同日札幌の人民体育館にて最初の練習が行われた。対戦相手は専らソ連などの共産圏の代表チーム、クラブチームであり18試合ほど戦った。

 

1966年W杯ベスト8

FIFAワールドカップは1966年イングランド大会で初出場。予選の北朝鮮との試合は第三国のシンガポールで行われ、第1戦に4-0、第2戦に2-0と2勝して本大会出場を決めた。

本大会グループステージでは、初戦のボリビアには0-4で敗れたが、次のフランス戦には引き分け、強豪ハンガリー戦との最終戦では後半67分の███の得点で1-0で破り、アジア勢初勝利とグループリーグ突破のベスト8に入る活躍を見せた。

このベスト8進出は、現在でも伝説として世界でも語り継がれている。

当時のチームは、共産圏の代表、クラブと試合を行って強化され、運動量豊富で早さがあり技術的にも優れたチームであった。

 

準々決勝のイングランド戦で、日本人民共和国は、前半37分まで4-0とリードしながら、イングランドのスター選手であった████・███████の5得点で4-5でワールドカップレコードとなる大逆転負けを喫した。

 

「あの時私たちは攻撃しか知りませんでした。3点決めると、イングランドのキャプテンは全員に守らせたんだ。4点取られても守った。私たちはその意味が分からず、ずっと攻め続けました。すると運動量が落ちたところに███████のスピードにやられPKを与えてしまった。私たちは試合経験が決定的に不足していたのです。自分たちのやり方である攻撃的なサッカーしかできなかった」

- この試合で3得点を決めた████による試合後のコメント

 

この試合で長身フォワード███████にかき回された経験から長身選手をそろえるという強化方針に方針を変更した為、ベスト8進出の要因だった豊富な運動量、スピードが失われ弱体化につながった。

 

低迷期

1992年にはソ連出身の█████・██████が監督に就任したが、1994年メキシコ大会のアジア最終予選で韓国代表とプロリーグ創設で勢いに乗っていた日本国(南日本)代表に敗れ本大会出場を逃した。

この結果により最高指導者であった█████の怒りを買い出場を自粛(2010年ワールドカップ予選まで)することとなった。

 

だが本当は国内情勢の悪化でありサッカーどころではなくなってしまい、財政難に陥ってしまったことにより遠征費すら払えない状況に陥ってしまったのが理由であり長く低迷期が続くことになった。

 

国際舞台への復帰

長く予選に出場せず、試合も行わなかったことでFIFAランキングから除外されてしまうほどだったが11年に日本国代表と親善試合を行い約17年ぶりに国際舞台に復帰した。

しかし長年国際試合を経験していなかった選手たちはレベルの差に苦闘し結果を残すことはできなかった。

 

南北統一へ

2020年7月9日、外国への旅行自由化の政令が決議される。午後5時より北日本国内および世界向けに生放送された記者会見で決議されたばかりの政令を発表する。

しかし文書の詳細を知らされておらず議事の詳細を把握していなかった広報官█████は内容を勘違いし以下のように発言する。

 

█████:東京の壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる。

記者:いつから発令されるのか?

█████:直ちに遅滞なくです。

 

 

このような「勘違い」によって北東京市民が北南東京の境に設けられた検問所に殺到、東京の壁崩壊へと至り日本再統一に結び付いた。

 

統一により日本人民共和国代表は日本国代表に吸収され歴史を終えた。

問題は山積しているが日本国の優れた施設や育成システムにより旧日本人民共和国の選手への良い影響が期待される。

 

 

参考サイト

日本民主主義人民共和国 - アンサイクロペディア

https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD#.E6.BB.85.E4.BA.A1.E3.81.A8.E5.8D.97.E5.8C.97.E7.B5.B1.E4.B8.80

 

ギュンター・シャボフスキー - Wikipedia

ja.wikipedia.org

 

サッカー朝鮮民主主義人民共和国 - Wikipedia

ja.wikipedia.org

 

サッカー日本代表 -Wikipedia

ja.wikipedia.org